BioSupercomputing Newsletter Vol.9

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シグナル伝達経路の細胞まるごとシミュレーション

岩本一成

理化学研究所 生命モデリングコア
生化学シミュレーション研究チーム
岩本 一成

プロフィール

 細胞は様々な環境下で生き残るため、環境に対して適切に応答することが可能です。その応答は、「シグナル伝達」と呼ばれており、その役割を果たす経路をシグナル伝達経路と呼びます。シグナル伝達経路は、細胞内の多くのタンパク質同士の化学反応からなる一連の反応ネットワークで、細胞内には非常に多くの経路が存在します。シグナル伝達経路の破綻は、細胞のがん化を招くことが知られているため、シグナル伝達経路がどのような状況で破綻するかを明らかにすることは重要な課題です。
 有名なシグナル伝達経路に、上皮成長因子(Epidermal Growth Factor: EGF)シグナル伝達経路と呼ばれる経路があります。この経路は、外部からEGFタンパク質の刺激を受け取り、その情報を細胞内に伝達し、細胞の成長・分裂・分化を促す役割を持っています。近年、細胞内のタンパク質を一分子レベルで観察することが可能となり、EGFシグナル伝達経路の応答を観察したところ、遺伝子が全く同じ細胞を、同じ条件で培養し、同じ刺激を与た場合でも、細胞ごとの応答が異なりました(図1左)。このような細胞間の応答のバラつき(応答不均一性)は、細胞のがん化や薬剤耐性などへの影響が示唆されており、応答不均一性の解明はそれらの影響を理解する上で非常に重要です。ところが、シグナル伝達経路には非常に多くのタンパク質が関与するため、従来の生化学・分子生物学的な実験手法だけでは、その解明が困難になりつつあります。そこで、コンピュータ上で仮想的に細胞をシミュレーションする、いわゆる細胞シミュレーションと呼ばれる方法が用いられるようになり、私たちはこの方法によりEGFシグナル伝達経路の応答不均一性を解明することを目指しています。
 私たちの細胞シミュレーションの手法は、従来の手法と異なり、細胞内のタンパク質の一分子ごとのランダムな動き・衝突・反応(ゆらぎ、ノイズとも呼ばれる)を全て表現しています。これまで、そうしたシミュレーションはコンピュータの計算能力的に困難でしたが、スーパーコンピュータ「京」の計算能力を利用することで、現在可能になりつつあります。私たちの研究チームでは、細胞シミュレーションソフトウェア「pSpatiocyte」を開発しており、これを利用して研究を実施しています。
 最新のシミュレーション結果を紹介します。EGFシグナル伝達経路では、主に「EGF→Raf→ERK」という流れで情報が伝達され、ERKタンパク質は最終的に細胞核に蓄積します(図1中央)。図1右は、ERKタンパク質を可視化したシミュレーション結果で、2つの細胞は全く同条件であるにも関わらず、ERKの応答が異なっていることがわかります。EGF、Raf、ERK、3種類のタンパク質分子の数は、「EGF>Raf<ERK」と真ん中のRafが少なくなっています。一般的に、情報伝達に伴うノイズは分子数が少ないほど増幅します。そのため、Rafで増幅されたノイズがそのまま下流のERKへと伝わり、細胞間のバラつきを生んだと考えられます。実際の応答不均一性も全く同じしくみであるとは現時点では断言できませんが、こうした知見を明らかにしつつ、私たちのチームは、EGFシグナル伝達経路の細胞まるごと、つまり細胞全体でのシミュレーションを目指しています。

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図1:細胞ごとの応答がバラつく様子(左)。EGFシグナル伝達経路の模式図(中央)。シミュレーション結果の一例(右)。

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発表論文
学会発表