BioSupercomputing Newsletter Vol.9

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ゲノム、生体分子、細胞、臓器などの多様な階層によって担われる複雑な生命システムを、「京」を中核とする日本の革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ(HPCI)を活用して解き明かすことを目指すHPCI戦略プログラム 分野1「予測する生命科学・医療および創薬基盤」(略称SCLS)がスタートして2年半が過ぎようとしている。多くの研究者らが分野を越えて結集し、計算生命科学によって、生命現象の予測・制御の可能性を探るとともに、その成果を医療・創薬への貢献に結び付けるという目的に向けて、研究はどこまで進んでいるのか。統括責任者・柳田敏雄氏、副統括・木寺詔紀氏、江口至洋氏にお話しいただいた。

研究者

多要因で複雑な生命システムを理解するには計算科学が必要

柳田  この2年半の間に、4つの課題いずれも研究の方向性がより具体的にフォーカスされてきました。まずは順調に進んでいると思っています。高度な計算機を使う手法が成熟していなかった生命科学の分野で、ようやくその道筋ができようとしています。
木寺  2013年3月に終了したライフサイエンス・グランドチャレンジ(次世代生命体統合シミュレーションソフトウェアの研究開発)によって基礎が確立され、このHPCI戦略プログラムで、実際に「京」という高度な計算資源を用いた研究が全面的に動き始めたことは、たいへんにすばらしいことだと思います。
江口  研究成果の普及という側面から見ても、「京」と計算生命科学への注目度は高まっています。製薬企業など十数社が集まり、課題2で開発を進めてきた、コンピュータ創薬のための超並列結合自由エネルギー計算プログラム「MP-CAFEE」を、創薬現場の視点から評価するプロジェクトも昨年から動き出しました。参加している方々は、本当に真剣そのものです。「京」を活用して、計算生命科学を自分たちの会社でも役立てたい、そうした思いが伝わってきます。
木寺  医療・創薬に貢献する成果を目指すという意味においても、分野1は画期的なプロジェクトです。計算生命科学は研究領域として始まったばかりで、未だに定まった価値観ができあがっていない未成熟なところがあります。そのなかで、この分野1が主導して、医療、創薬という社会的に開かれた価値観に基づいた研究を行うという方向に分野を形づくろうとしています。
江口  その方向で、人的なネットワーク形成も進んでいます。課題3などでは、臨床医の先生方と協力するといった広がりも生まれています。今まで、計算生命科学に臨床医が協力するという例は、あまり見られませんでした。
柳田  分子生物学者らも、最近は計算機を使った研究の必要性について、理解が深まっているように思います。環境に応じてふらふらと揺れ動くような状態が見られるなど、生物の世界は、一要因ではなく多要因であることが明らかになってきたことも、その理由の1つです。多要因であるということは複雑系であり、今までのように遺伝子解析だけでは先に進めません。複雑なものを取り扱っていく新しい手法、すなわち計算科学の力を借りながら実験を進めていくことが必要であると分かってきたのだと思います。

4つの課題で順調に進展する研究

木寺  多要因かつ複雑で動的な構造を持つ生命を、計算科学によって明らかにしようとするSCLSの4つの課題は、大きく2つに分かれます。課題1から3は、明らかに物理的な実体を持ったシミュレーションです。生体分子、細胞、臓器がどう働くのかを明らかにしていこうとするアプローチです。これに対して課題4は、生命システムの背後にあるゲノム配列というシステムのネットワークを、物理モデルではなく大規模データ解析という方法論を用いて明らかにしようとしています。方向性が大きく異なる2つの手法が、今後どのように結びつけていくのかが、大きな課題です。
柳田  生命の実体にダイナミクスや揺らぎが加わったときに、制御ネットワークがどのように働くのか、非常に面白いですね。あれほど複雑な実体が、実は簡単に制御されてしまうということも、将来、見えてくるかもしれません。
江口  計算生命科学の研究者だけで、課題1から4までが一気通貫に繋がるというわけにはいきません。生物学者や臨床医など、いろいろな人たちの力が必要です。そのためにも、私たちは「SCLSに近づくと何か面白いことがありそうだ」と思えるような魅力的な成果を出していくことが求められるのではないでしょうか。
柳田  そうした成果は、すでに各課題から出始めていますね。
木寺  課題4「大規模生命データ解析」では、すでに巨大なゲノムデータを「京」で解析するためのソフトウェア技術を完成させています。一方で、原子・分子レベルから、狭い空間にたくさんの分子が詰め込まれている細胞のなかを見ていこうとする課題1「細胞内分子ダイナミクスのシミュレーション」では、細胞のなかでのタンパク質などの働きの解析・予測のための計算が進んでいます。
江口  「京」をフル活用して、細胞を丸ごとシミュレーションしようとする、非常にチャレンジングな取り組みです。
柳田  細胞の機能に近づこうとしていますが、階層のジャンプがあるため、何をどこまで再現するかが、今後の大きな課題ですね。
木寺  課題2「創薬応用シミュレーション」では、約300種類の新規化合物について高精度な計算を行い、がん治療に関する新薬の候補となる化合物を見つけ出すことに成功しています。
柳田  課題3「予測医療に向けた階層統合シミュレーション」も、パーキンソン病を理解するために進められている研究で、神経が信号をつくり出すシミュレーションと、信号によって骨格筋が収縮するシミュレーションを統合することに成功するなど、順調に進んでいます。
木寺  分子・心筋細胞・心臓全体という3つの階層を接続した心臓シミュレーションでも、肥大型心筋症のシミュレーションを行い、その病態の再現に成功しつつあります。そしてその成果は臨床現場での治療に生かされようとしています。さらに、心筋梗塞への医療応用を目指して、心臓シミュレーターと血管のシミュレーターを統合するシミュレーションも着々と準備が進んでいます。
柳田  誰もが健康でありたいと願っています。そのための医療や生命科学の発展に、大きな期待が寄せられています。計算生命科学はまだ始まったばかりですが、やはりその期待は大きなものがあると実感しています。SCLSは、そうした期待に応えるための重要な役割を担っている、そのことを常に頭に置きながら、残りの2年半、頑張っていかなければならないと思っています。